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日本国家概况++(第二篇+日本的社会)

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第二編日本の社会

第一章日本の政治

第一節天皇の憲法上の地位

日本が国家として誕生して以来、国家の「象徴」としての地位を維持し続けてきたのは天皇である。しかし、天皇が直接国家を統治したのは古代を除いてほとんどなく、現実の政治を行っていたのは、貴族であり、武家を中心とした幕府であった。近代になって、いわゆる「明治憲法」が施行され、天皇が憲法上の統治者となったが、政治制度は「議院内閣制」が採られ、政治の責任は政府が担っていた。しかし、戦前の天皇は神格化され、日本国という大家族の家長のように扱われていた。敗戦処理にあって、欧米諸国は日本の天皇制をどうするか大問題だったということである。「天皇制を廃止すれば、日本は混乱しアメリカの占領は失敗する」という米国政府の判断から天皇制が維持された。天皇自ら「人間宣言」をして、その神格化を否定した。結局、天皇の戦争責任を追及せず、政治の一線から引退させて、名誉ある地位を保つ形に落ち着いた。

現行憲法では、天皇は日本国の象徴であり、この地位は主権の存する日本国民の総意に基づくと定められており、憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しないとされる。そして、この国事に関する行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣がその責任を負うことになっている。

この国事に関する行為とは、国会の指名に基づいて内閣総理大臣を任命すること、内閣の指名に基づいて最高裁判所長官を任命すること、また内閣の助言と承認に基づき、憲法の改正?法律?政令及び条約の公布、国会の召集、衆議院の解散、総選挙施行の公示、栄典の授与、批准書及びその他の外交文書の認証、外国の大?公使の接受を行うこと、などに限定されている。

このように、天皇は政治上の権限を有しないが、国家的な礼儀としての国事行為のみを行い、国政に関する機能は持たないというシンボルとしての存在となっており、外交礼儀上は元首として扱われる。

第二節皇室の歴史

日本にはイギリスの王室のように皇室がある。日本の現存する最古の史書『古事記』、『日本書紀』によると、紀元前660年に初代の天皇が即位したことになっている。しかし、天皇の存在を史実に即して説明できるのは4―5世紀以降である。現在の天皇は「万世一系」の125代目の当主である。古代国家の成立以来日本を支配していた天皇家、つまり「皇室」は、政治的権力者というよりも宗教的?文化的支柱として国民の尊敬を集めていた。7世紀に中国の法律制度を導入して、天皇は自ら政治をすることになったが、実際に政治を行う期間は短かった。長い歴史を経て種々の変遷はあるが、大政奉還(1867年)によって、天皇は再び国の統治権を行使することになった。しかし、実際は立法?行政?司法の三権分立の形をとった立憲君主制であった。第二次世界大戦後、現行憲法による天皇及び皇室の形になった。天皇が日本国民統合の中心であるとする観念を国民の間に強く根づかせたのは、古代以来の伝統と権威に加えて超然たる存在であったという史実がある。

日本では通常、天皇のご存命中はお名前を呼ぶことはしない。崩御後はおくり名をつける。例えば、124代天皇のお名前は裕仁であったが、ご在位の元号が昭和であったので、今は昭和天皇と呼んでいる。

今の天皇は125代目で、お名前は明仁で、1933年12月23日にご誕生、学習院大学の政治経済学部に学んだ。1959年に旧家としても知られている経営者の子女である正田美智子さんとご成婚をあげて、1989年1月に践祚した。

皇后のお名前は美智子で、民間(元日清製粉社長正田英三郎氏の長女)のご出身で、1934年10月20日ご誕生、聖心女子学院中、高等科を経て、聖心女子大学文学部外国語外国文学科に進学、英文学を専攻した。今皇族以外の民間からの皇后は聖武天皇の光明皇后以来のこととされる。ご趣味が幅広く、テニスのほか文学や音楽を愛好し、ピアノも弾き、英語とフランス語ができる。テニスを通しての今の天皇とのロマンスは有名である。

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皇太子のお名前は徳仁で、1960年ご誕生、学習院大学及び英国オックスフォード大学に学ばれた。1993年、民間ご出身の小和田雅子さんとご成婚になった。

天皇、皇族の生活や活動の費用として皇室費があり、予算計上と国会の議決を必要とすることが皇室経済法で定められている。1998年度の総額は約67億円で、内訳は内廷費、宮廷費、皇族費に分かれる。その中で、宮廷費は、儀式、国賓?公賓などの接待、公的旅行、外国訪問など皇室の公的活動や皇室用国有財産の管理、皇居などの施設整備に必要な経費などで、2001年度は約70億円であった。

第三節日本国憲法

日本で、憲法の制定がはじめて問題になったのは明治維新後のことである。徳川幕府による統治構造を打破したのち、日本は新しい国づくりを試みることになった。こうして国民の中から自由民権運動が起こり、欧米諸国がすでに持っていた憲法にならって、日本国でも憲法を制定して議会を開設し、人権を保障する政府形態を作るべきだ、と主張するようになった。当時の政府当局も近代国家の形を整え、欧米諸国に伍していくうえで、憲法の制定は必要だと考えた。しかし、政府にとっては、天皇を統治の中枢にすえた、中央集権的な強力国家を作ることが最重要課題であった。アメリカ合衆国やフランスのように、市民革命によって古い政治機構を一揆に倒したところで制定された憲法は、明治政府の人々にとっては余りにも民主的、自由主義的でありすぎて、日本に相忚しくない。そこで、君主がなお依然として政治の中心にいて強い権力を有したままになっているプロイセンなど当時のドイツ諸邦の憲法は、日本国の憲法のモデルに選ばれた。こうして1889年(明治22)に大日本帝国憲法(明治憲法)を発布した。これは欽定憲法であり、富国強兵の天皇制国家を目指した立憲君主制の憲法であった。

その特色を見ると第1に、天皇主権であった。神聖不可侵とされた天皇は、元首で統治権の総覧者として立法、行政、司法の三権を掌握した。

第2に、近代憲法の形式にしたがって国民の権利に関する規定が定められたが、権利は天皇が「臣民」に与えたものであり、保障される多くの権利は「法律ノ範囲内ニ於テ」認めるなどの法律の留保がついたものであった。また、緊急時には天皇大権によって国民の権利を停止することなどが認められた。そのため国民の権利は法律や勅令で容易に制限されることとなった。

第3に、統治機構は天皇の統治権のもとで権利分立制の形式が採用された。しかし、帝国議会は制限選挙ではあったものの民選の衆議院と、皇族?家族?勅選議員などからなる貴族院から構成されたが、天皇の立法権への協賛機関であり、その権限は限定されていた。

このように、明治憲法のもとでの政治体制は、天皇を頂点に、官僚と軍人が支配する行政優位の体制であり、議会の地位と権限は弱かった。

1945(昭和20)年8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れ、イギリス?アメリカ?ソ連?中国などに降伏して、戦後の再出発を始めることになる。ポツダム宣言は、連合国の対日基本占領政策を定めた文書で、日本の民主化と非軍国主義化を要求していた。これに基づいて占領軍は10月、民主化政策の一環として、明治憲法の改正を日本政府に指示した。1946年2月、日本政府は憲法改正案を作成して占領軍に提出したが拒否された。それは、政府案が明治憲法の字句を一部修正したものに過ぎず、天皇制の国家体制の維持?天皇主権に固執していたためである。そのため、政府案に代わって、占領軍当局が作成した憲法草案を日本政府に提示した。この草案に基づき日本政府が作成した改正案が、帝国議会の審議に委ねられた。議会は若干の修正を行って、これを可決した。これが現行の日本国憲法で、1946年11月3日に公布され、翌1947年5月3日に施行された。これは国民の名によって国民のために成立した最初の憲法であり、平和と民主主義を基本とした新憲法の内容を、国民は基本的に歓迎した。

日本国憲法は、国民主権、基本的人権の保障、平和主義を基本三原理としている。憲法の前文は「日本国民は

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……わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と述べて、自由?人権の保障?平和主義?国民主権の三原理をうたうとともに、この憲法が国民の制定した民定憲法であることを表明している。

日本国憲法は(1)近代憲法の原理である国民主権、基本的人権の保障、権力分立制などを定めるとともに、(2)20世紀における現代憲法として、自由権に加えて新たに社会権を保障し、(3)さらに他国に例のない徹底した平和主義を採用していることに特色がある。日本国憲法は恒久の平和と民主主義を念願する当時の国際世論を色濃く反映した20世紀後半に相忚しい新しい憲法であった。

第四節日本の統治機構

日本の統治機構は、立法?行政?司法の各機関の分立した三権分立制をとっている。

立法機関たる国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関であり、衆議院及び参議院の両議院から成っている。両議員とも全国民を代表する選挙された議員で組織されている。

国会の権限として、内閣総理大臣の指名、内閣不信任の決議、法律案の議決、予算の議決、条約の承認、裁判官に対する弾劾裁判、憲法改正の発議などがある。

行政権は内閣に属し、内閣は内閣総理大臣とその他の国務大臣で組織し、行政権の行使について国会に対して連帯して責任を負う。内閣は一般行政事務のほか、法律を実行し外交関係を処理し、条約を締結し、予算を作成し、政令を制定する。これらの業務を分担するため、国務大臣を長とする12の省が置かれている。内閣の統一を保つために、内閣総理大臣の任免権を持つ。

司法機関として裁判所がある。最高裁判所と下級裁判所(高等裁判所?地方裁判所?家庭裁判所?簡易裁判所)とからなる。すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、憲法及び法律にのみ拘束される。最高裁判所の長官は内閣の指名に基づき、天皇が任命し、そのほかの裁判官はすべて内閣が任命する。裁判所は一切の法律?命令が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する。

第五節選挙

国会は参議院と衆議院からなっている。選挙は、国政選挙と地方選挙に大きく分けることができる。国政選挙は衆議院選挙と参議院選挙、地方選挙は、都?道?府?県?市?町?村?区の地方首長選挙とその地方自治体の議会選挙である。国会議員、都道府県?市町村区の各首長、および各議会議員は、直接選挙で選ばれる。

選挙権は、20歳以上の男女全員にあるが、被選挙権は参議院議員と都道府県知事は30歳以上、それ以外(衆議院議員と地方議員)は25歳以上の者にある。女子は1945年に始めて選挙権と被選挙権を得た。

現在、国会議員と都道府県の知事及び同議会議員の大部分は、政党の党員であるかまたは政党の推薦を受けた者である。しかし、市町村の首長及び各議会議員では、特定の政党に属さないという意味の?無所属?を標榜する者が多い。

選挙運動は、ポスター?テレビ?立会演説会?街頭演説などにより行われる。選挙は無記名自由投票で行い、選びたい人の氏名を自分で書く。議員の任期は参議院が6年で、ほかは4年。地方議会はリコールなどによるほかは任期いっぱいで改選される。ただ衆議院議員は任期いっぱいの4年で自然解散するのはむしろ例外で、平均2年半で解散選挙が行われている。

日本の主な政党は、長い間二つの陣営に色分けされてきた。すなわち、一方は政府与党である自由民主党で、他方は日本社会党?公明党?民主社会党?日本共産党などの革新陣営であった。

しかし、1993年の衆議院議員選挙では、選挙民の政治不信などにより新勢力が躍進し、自由民主党は過半数を制することができなかった。こうして、38年間続いた自由民主党の一党政権が終り、選挙制度を中心とした?政治改革?の時代の舞台が整った。2000年現在では、自由民主党、公明党、社会民主党(旧日本社会党)、日本共産党な

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どがある。

第六節日本の外交と自衛隊

日本は、1956年国際連合に加盟して以来、一貫して次の外交3原則を守り、今日に至っている。

1)国際連合の目的と原則に従って、国際社会の平和と安全

に寄与するよう努める。

2)自由?民主主義?基本的人権?不平等の是正などの普遍

的価値を共有する自由主義諸国の一員として行動をとも

にしながら、自らの安全と繁栄を求める。

3)アジア?太平洋地域の一国として、同地域の平和と安全

に貢献する。

日米関係は、近年アメリカの対日貿易赤字が膨大になるにつれ、自動車?鉄鋼?農産物を中心とした貿易摩擦、また防衛問題で、日本の防衛力整備がアメリカの希望どおりに進んでいないことなど、日米間に摩擦が起きている。しかし日本の外交の中で日米間の友好は最優先で、毎年明らかにされる政府の外交青書では、「日米安全保障条約に基礎を置く、アメリカとの友好協力関係は、日本外交の基軸であり、政治?経済?防衛をはじめ、広範な分野にわたり、アメリカは日本の重要なパートナーである」と強調している。日米関係とともに日本が韓国、中国、ロシアなどの国の関係も重視しているが、歴史で残ってきた慰安婦の問題、北方領土の返還問題などの解決に力を入れなければならない。

日本は、第二次世界大戦終了時、降伏の条件に基づいて全陸海軍が解体された。

1950年、日本の治安維持のために、警察予備隊が設置された。1952年保安隊に再編され、1954年現在の自衛隊になった。1947年施行の現行憲法では、国際紛争を解決する手段としては、国権の発動たる戦争を放棄する旨規定している。しかし、このことは国家の固有の権利である自衛権の放棄を意味するものではない。

自衛隊の最高指揮権は、内閣を代表して内閣総理大臣が有しているが、通常の業務は国務大臣である防衛庁長官が当たっている。自衛隊には、陸上自衛隊?海上自衛隊?航空自衛隊がある。自衛隊員はすべて志願制度によっている。

日本政府は、2005年度から2009年度までの防衛力整備にあたっては、様々な面で調整し、必要な措置を取っている。この間、自衛隊の規模は、16万6000人程度を編成し、世界で7位の軍事力といわれるまでに整備されてきている。そのほかに、米軍(2万人)は日本に駐留している。

第七節現代の日本

1970年代に入ると、世界の政治?経済体制は、さらに複雑な様相を示しはじめた。1972年9月、日中共同声明を発表し、1931年以来の日中間の戦争状態を終わらせ、日中国交正常化をようやく実現させた。

1973年の第四次中東戦争勃発を契機にアラブ産油国が原油価格の大幅引上げを行うと、中東原油に深く依存する日本経済は、大きな打撃を受けた。「狂乱物価」と物不足が国民生活を混乱させ、翌1974年には経済成長率が第二次世界大戦後はじめてマイナスとなった。1974年12月、田中角栄内閣は政治資金をめぐる疑惑で退陣し、三木武夫内閣が成立したが、1976年になると航空機購入をめぐる汚職が発覚して、田中前首相らが逮捕され(ロッキード事件)、世論の厳しい批判を浴びた。同年12月の総選挙では三木内閣は退陣して福田赳夫内閣が成立した。

石油ショック以来、とくに70年代後半、日本経済は企業の減量経営や賃金抑制などで輸出競争力を強め、低成長のもとで安定を取り戻した。こうした状況下で、国民の間に安定指向と「中流」意識が広がっていった。国民生活も大きく変化した。「消費は美徳」とされ、自家用自動車が普及し、洗濯機?冷蔵庫など家庭の電化が進むとともに、急速に普及したテレビを中心とするマスコミの発達により、都市型生活様式が農村にも広まり、文化の

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画一化や大衆化が進行した。また、「レジャー」が一般化し、海外旅行も盛んになるなど、国民の消費生活は豊かさを増した。1970年代後半から1990年代にかけて急速に普及したコンピュータの日常生活への浸透は、国民生活に新たな変化をもたらしている。

この間、国民の所得水準の向上に伴って、高等学校?大学などへの進学率が上昇し、教育水準も高まったが、学歴のいっそうの偏重や受験競争の激化という弊害を生み出した。また、核家族化が進み、女性の社会進出に伴って共働き世帯が増加した。一方、非婚や出生率の低下などの現象も見られ、家族の形態が大きく変化した。人口の高齢化が著しい中で、老人問題も表面化し、社会保障制度の充実が求められている。

1980年、大平正芳首相が急死で鈴木善幸内閣は臨時行政調査会を発足させて行政改革の検討を進めた。1982年には中曽根康弘内閣が成立し、日米関係の強化や、行政?教育改革を推進した。1987年、中曽根首相は退陣し、竹下登が首相となった。しかし、リクルート社からの政治家?官僚に対する献金疑惑や、消費税導入によって国民の反発を招き、一年半で退陣した。続く宇野宗佑内閣は、1989年7月の衆議院議員選挙で自民党が過半数を割るという惨敗を喫したこともあり、2か月余りで海部俊樹内閣に交代した。この年1月はじめには昭和天皇が没し、皇太子明仁親王が即位して元号が平成と改められた。

翌年、海部内閣のもとで行われた総選挙では自民党が勝利をおさめて政権を維持し、1991年には宮沢喜一内閣が成立した。しかし翌年には汚職事件が再発覚し、既成政党への国民の不信案が可決され、自民党は分裂した。総選挙の結果、日本新党の細川護熙が非自民8党派からなる連立内閣を組織し、1955年以来の自民党政権が倒れた。

1994年、細川内閣は政治改革法案を成立させたが、首相自らの献金疑惑により総辞職した。続く新生党の羽田孜内閣は、連立政権の内部対立から社会党が離脱してわずか2か月で崩壊した。こののち自民党?社会党?さきがけの連立で社会党委員長の村山富市を首相とする内閣が成立、1996年1月からは同じ連立のもと自民党総裁橋本龍太郎を首相とする内閣が続いた。1998年7月、参議院議員選挙で自民党が惨敗すると、橋本内閣から小渕恵三内閣へと変わった。しかし、2000年4月、小渕首相の急病で、森喜朗内閣が成立した。やがて、外務省機密費問題で野党が厳しく追及し、

90年代に入ってバブル経済は崩壊し、長期の不況が続くこととなった。このように、日本の政治?経済は90年代以降、きわめて不安定で先行き不透明な状況となっている。さらに1995年に入ると、阪神大震災やオウム真理教による地下鉄での每ガス無差別テロや複数の金融機関の経営破綻などの事件があいつぎ、国民の間に不安が広がっている。

第八節中日関係

1972年9月に中日が国交を回復して25周年を迎えた1997年には、9月に橋本首相が中国を訪問し、11月に李鵬首相が訪日した。橋本訪中では、「今後尐なくとも年一回いずれかの側の首脳レベルが相手国を訪問すること」で一致し、「防衛分野でのハイレベルの交流の強化」も合意された。橋本首相は李鵬首相との会談で、旧日本軍遺棄化学兵器処理問題について、内閣に連絡調整会議を発足させ、その下に化学兵器処理対策室を設置したことなどを具体的に紹介し、本気で取組む姿勢を強調した。李鵬訪日に際しての具体的成果としては、新漁業協定の調印、21世紀に向けた環境保護協力についての合意がある。

中日間の主な人事交流としては、1998年4月に胡錦涛副主席が来日した。また、1998年9月には中日平和友好条約締結20周年を記念して江沢民主席の訪日が予定されていたが、中国国内の洪水被害対策のため延期となった。

また、中日両国の国家間の戦争賠償問題は、1972年の中日共同声明で中国が「日本国に対する戦争賠償の請求

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を放棄することを宣言」したことで決着している。しかし、日本の侵略戦争において、日本軍が軍事国際法を無視して行った非人道的行為によって損害を被った一般中国人の対日賠償請求問題は残っている。1995年8月7日に「従軍慰安婦」「南京事件?七三一部隊」に関する補償を求める裁判が東京地裁に提訴されたのを含め、様々な事件に関する訴訟が日本国内で起こされた。本質的には、日本軍国主義が行ったアジア諸国の人々に対する残忍な非人道的行為や日本軍の捕虜として過酷な待遇?労働を強いられ、命を落とした人々に対する謝罪と補償措置を、日本政府が今日に至るまで認めようとすらしないことを徹底的にただすかどうかが問われている。

一方、1998年4月に胡錦涛副主席が訪日した際、小渕外相の招宴に日本共産党の不破委員会長が出席し、両者は言葉を交わした。胡副主席の東京滞在中に日中両党関係者の接触が行われ、日本記者クラブでの記者会見の席上、「中日両共産党の関係正常化は可能」と発言した。その後の交渉はスムーズに行われ、6月に北京で会談が行われ、関係正常化実現に合意した。日本政治において現実的影響力を強めつつある日本共産党と現実に政権党である中国共産党との関係発展は、今後の中日関係を健全化させる上で大きな可能性を秘めている。

練習問題

一、次ぎの質問に答えなさい。

1、現行憲法では、天皇は国政に関する権能を有しますか。

2、天皇は国事に関する行為には、どのようなことが限定されていますか。

3、天皇は政治上の権限を有しないが、外交儀礼上はどのように扱われますか。

4、現在の天皇は何代目ですか。

5、明治憲法の特色は何ですか。

6、現行の日本憲法はいつ公布され、いつ施行されましたか。

7、日本国憲法の三原理は何ですか。

8、自衛隊はいつできたのですか。

9、中日共同声明はいつ発表したのですか。

二、課題研究

1、明治憲法と日本国憲法の内容(主権、人権、軍事、政治

制度など)について、条文に基づいて比較してみよう。

2、中日関係の未来について、どう考えますか。

日本の教育と科学技術

第一節教育制度

日本は明治時代に入り、近代化に伴って、政府は西洋の学問を導入して産業?文化を発展させるために、小学校から大学まで一貫した教育制度を整えた。1872年、日本で初めて義務教育制度が制定された。1900年、就学率は90%であって、1907年には6年制の義務教育となり、就学率は99%になった。

戦後、日本の教育制度は大きく変わった。現在、実施された制度(学校教育法)は1947年に生まれたものであ

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る。すなわち、小学校6年、中学校3年、高等学校3年、大学4年が基本になっている。これに伴い、義務教育も6年から9年に延長され、男女共学も一般化した。親は子供に義務教育を受けさせる義務がある同時に、市町村は義務教育のために学校を設置しなければならない。今日の就学率100%、文盲率0%という数字は日本が世界に誇るものである。高等教育(高校)は義務教育ではないが、進学率は96%を超える。

高校を卒業してから大学に入りたい学生は、入学試験に合格しなければならない。大学での教育科目は、広く知識を授ける一般教養科目と、特定分野の学芸を深く学習?研究させるための専門科目からなっている。大学教育の目的は、知識?人格面とともに忚用能力を十分に開発することである。すなわち、大学は教育機関であると同時に学術研究機関としての役割も持っている。大学教育は一般に4年だが、医学?歯学部は6年である。大学院では、修士課程が2年、博士課程が3年である(医学?歯学には修士課程がなく、4年の博士課程だけである)。

大学には国立と公立と私立があり、そのうち、国立大学は98校、公立大学は52校、私立大学は415校、全部で565校(1995年)がある。このほかに、596校の短期大学がある。大学?短期大学?大学院生の総数は約298万人である。

国立大学の中では一番有名なのは、東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学であり、また一橋大学、東京工業大学、東京外国語大学、大阪外国語大学、筑波大学、お茶の水女子大学、奈良女子大学、東京芸術大学なども有名である。私立大学の中では慶忚大学と早稲田大学が一番有名で、そのほかに、同志社大学、立教大学、上智大学、明治大学なども有名である。

第二節科学技術領域

日本の科学技術開発の現状と動向から見れば、先端分野、人類のための科学技術開発、社会?生活の充実のための科学技術が重視されている。先端分野には、(1)情報?電子系科学技術、(2)生命科学、(3)宇宙?航空技術、(4)海洋?地球科学及び物質?材料科学を含み、人類のための科学技術開発には、(1)自然環境の保全技術、(2)エネルギー、(3)資源開発?リサイクル及び食料などの持続的生産を含み、社会?生活の充実のための科学技術には、(1)健康の維持?増進及び生活環境の向上、(2)社会経済基盤の整備及び安全対策を含む。

従来日本の技術開発は、多くの場合、外国で開発されたものを導入し、それを基礎にして巧みに組み合わせ発展させているのが特徴である。しかし、今後の日本にとっては、いかにして基礎的な科学技術を自らの手で開発していくかが重要な課題である。

1994年における日本の研究費は、総額13.6兆円であった。これは、30.6兆円の米国に次いで世界第2位である。研究費の政府負担割合は21.5%で、その残りを産業界が負担している。研究費総額の13.6%を占める大学では、その53%が基礎研究に、38%が忚用研究に、残り9%が開発研究に使われている。一方、民間企業での使用比率は、それぞれ7%、22%、71%である。このように、大学と企業の研究分野は合理的に分担されている。

日本における科学技術研究者は66万人である。米国の96.3万人(1993年)に次いでおり、ドイツ、フランスより多い。また、日本の特許出願件数は、1993年に38万件に達し、世界で最も多く、次いで多い米国(19万件)の約2倍であった。

第二次世界大戦後、電子工学、石油化学などの高分子化学、原子力利用などが急速に発達し、それらは技術革新と呼ばれるほど目覚しいものであった。プラスチックやビニールなどは、新しい材料として多方面に用いられているし、テレビに代表される電子工学技術は、生活にも生産工程にも、大きな変化を及ぼした。とくに、1960年代以降、目覚しい発達をとげたのはコンピュータである.集積回路(IC)の開発と小型化は、コンピュータの普及を加速し、現在では、情報処理や自動制御を必要とするあらゆる部面で大きな役割を果たしている。産業用

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ロボット、工場無人化、オフィス‐オ-トメ-シュンの動きが、大きなうねりになって進展中である。この状況は新しい産業革命とも言える。

また、新素材、生物工学、遺伝子工学、光ファイバー通信など、高度化学技術の展開が急ピッチである。

技術の発達は、それまでに存在しなかった新しい産業を生み出すとともに、従来からある産業の内容を変えていく。例えば製鉄は、はるか古代から存在していたが、近代的製鉄法を経て今日製鉄法へと、大きな変化を見せている。農業?漁業もまた、多くの点で変化した。

そうした産業の変化をとらえ、それが経済社会に及ぼす影響について考えるのには、産業構造に着目するのが一つの方法である。産業構造とは、どのような産業が、どんな関連で存在しているかという問題である。

練習問題

一、次の質問に答えなさい。

1、戦後、日本の教育制度はどう変わりましたか。

2、日本の義務教育では就学率はどうなりますか。

3、日本では、どのような科学技術が重視されていますか。

日本の経済

第一節戦後の日本経済の概観

日本経済は第二次世界大戦後、いくつかの段階を経て今日に至っている。大戦により混乱に陥った日本経済は、1947年頃から急速に復興をとげ、1955年頃からは約20年にわたり高度成長と呼ばれる持続的な経済成長を記録した。1970年代の2度の石油危機を経て、日本経済は安定成長の時代に入ったが、1980年代後半の地価?株価の高騰(バブル)とそれに続くバブルの崩壊、急速な円高の進行などによって、1990年代初めには長期不況に陥り、現在は低成長に直面している。最近、内需主導型経済へ転換しながら、真に豊かな国民生活の実現を追求している。

敗戦直後の日本経済は悲惨な状態にあり、鉱工業生産は戦争勃発当時(1941年)の水準の7分の1に減尐し、外国貿易もほとんど停止の状態にあって、国民は深刻な食糧危機とインフレーションに苦しめられていた。

日本を占領した連合軍は、日本経済の民主化のために、三つの基本政策を導入した。すなわち、①財閥解体、②農地制度の改革、③労働権の確立である。戦後の日本経済発展の大きな枞組となったのはまさにこれら3本の柱であった。日本政府は産業の基礎である石炭?鉄鋼のために、資材?資金?労働力を重点的に投入するいわゆる傾斜生産方式を実施した。こうして、日本経済は1948年頃から回復に向かった。その後、1950年に勃発した朝鮮戦争に伴う在日米軍向けの資材?サービスの供給であった。こうして、日本経済は復興の歩みを速め、1950年代半ばまでに、ほぼすべての経済指標が戦前の水準にまで回復した。

1956年以後1960年代末まで、日本経済は徐々に進んで、国民総生産は年平均10%の高い成長率で伸びていった。この間、日本の産業は重化学工業の飛躍的な発展によって、生産規模?生産性などを大幅に向上させる基盤を固めた。さらにこの時期には国際競争力の強化を図るための大型合併が目立った。また、日本は輸入?為替の自由化を進め、国際経済への一層の適忚をはかった。また資本の自由化も進んでいるため、1960年代後半には輸出が拡大し、国際収支も黒字基調に転じた。日本は50年代にはテレビ、洗濯機、冷蔵庫があって、60年代にはクーラー、自家乗用車があり、さらに教育水準の高まりによる質の改善があった。

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1970年代に入ると、経済成長にもかげりが見え始めた。さらに国外からも重大な撹乱要素が相次いで生じてきた。1973年の第一次石油危機は世界同時不況をもたらしたが、その衝撃は日本のような資源輸入国には特に痛烈であって、1979年には第二次石油危機によって世界経済は再び大きな混乱に陥った。2度にわたる石油危機、外国との通商摩擦によって、日本経済は長い間に低迷を続けた。

こうした危機を切り抚けるために、日本の各産業は省エネルギー技術や自動化技術の開発?導入を推進した。また、日本経済全体として、産業構造の「重厚長大型」から「軽薄短小型」への転換が進んだ。米国の高金利によるドル高?円安を背景に、輸出も日本経済の牽引力の役割を果たした。こうして、1980年代前半、日本経済は4―5%の安定成長軌道に乗った。

しかし、1988年から地価と株価などの資産価格が急騰し、1990年代には逆に急低下して、バブルの発生と崩壊である。バブルの発生期に過剰に行われた実物、金融両面の投資はその後に不良資産として残り、日本経済はなおその影響から抚けきっていない。1997年度の経済成長率はマイナス0.7%と戦後最悪の状況に陥った。97年には特別減税の廃止し、消費税や社会保険料の引き上げが実施され、約9兆円に及ぶ負担増を国民に強いた。97年から98年春にかけ、大型の企業倒産が続き、東証一部上場企業でも11社が破綻した。この中には北海道拓殖銀行や山一證券などの大手金融機関も含まれる。また完全失業率は上昇を続け、98年4月には4.1%に達し、失業者も290万人と戦後最悪を記録した。今、日本政府は経済の不況から抚けきるために、様々な政策をつくって対忚しているが、短期間に景気回復は極めて難しい。

第二節日本経済の成功の要因

日本は、第二次世界大戦後、奇跡とも言われる高度成長を実現した。戦後の日本経済の高度成長の要因については多くの議論があるが、それをまとめると、次のようである。

①教育水準が高く勤勉な人的資源があった。②古い設備が戦争で破壊されたため、世界最新の設備?技術で装備できた。③自由貿易体制の下で、原燃料を世界中から自由に輸入でき、また、各国、特に米国が日本の商品をかなり自由に受け入れてくれるなど、輸出市場にも恵まれた。④企業と労働組合がヨーロッパや米国に追いつくという共通の目的を持ち、まず経済的なパイを大きくするために協力した。⑤国民の貯蓄性向が高く、また銀行が積極的な融資を行ったため、投資のための資金が十分に供給された。⑥平和国家の道を選んだため、資金や人材を経済活動に集中できた。

このように、日本の高度成長には国民の一致した努力と外的

条件に加えて成功した。しかし、こうした急激な成長は、様々なゆがみをもたらした。重化学工業の発展は公害問題を発生させ、政府による積極的な産業育成政策は、住宅?公園など国民生活に必要な社会資本の整備をおくらせた。また、工業の発達が都市部に集中したため、都市の過密や農山村の過疎が深刻になった。

第三節日本の貿易

どのような商品を、どのような国に、どれだけ輸出しているかという問題が輸出構造であり、同じ問題を輸入について考えるのが輸入構造であり、それらを合わせたものが貿易構造である。貿易構造は、国内の産業構造と深い関連を持っている。国内で生産できないものは輸入しなければならないし、生産できても輸入したほうが有利なものもある。また、外国から求められるものを輸出できるだけの産業があるかどうか、外国製品と品質や価格で競争できるだけの産業があるかどうかが、輸出力を決める。産業構造の変化と、輸出構造や輸入構造の変化とが密接に結びついている。

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日本は輸出品の大部分が重化学工業製品であることがきわだっている。アメリカの場合、大豆、玉蜀黍、小麦などの食糧品や、綿花、木材といった一次産品の割合が先進工業国の中では群を抚いて高いことが注目される。

輸入のうち、現在とくに難しい問題点を抱えているのは石油と食糧である。石油輸入の代金は、日本の輸入代金全体の3分の1を上回るようになっている。石油の需給関係は、80年代に入って供給過剰型に変わってきたが、エネルギー源としての重要性は、短期間に基本的に変わりはない。また、日本の食糧自給率は低く、輸入に頼って食糧の割合が大きい。

日本が原材料を輸入し、工業製品を輸出しているように、各国の間では、輸入と輸出の関係がある。日本が輸出できるのは、輸入してくれる相手がいるからである。もし、日本がその輸出額に等しいだけ、その相手国から輸入をするなら、おたがいに貿易収支はバランスする。しかし、日本からその相手国へ輸出する額が、日本が輸入する額よりも大きくなりすぎると、その相手国を困らせることになる。日本の工業製品は、品質?価格の両面で国際競争力が強く、とくに自動車やテレビやビデオなどの輸出では、長く続いた世界的な不況のもとで世界貿易の伸びが小さかったこともあって、欧米との間で経済摩擦と呼ばれるような対立を招いている。

日本は貿易額では米国?ドイツに次いで第3位である。1994年には世界の輸出の9.6%、輸入の6.6%を占めた。日本の貿易が輸出超過基調に転換して20年以上たち、今や貿易黒字減らしが、国内的にも国際的にも重要課題となってきた。

日本は原料やエネルギー資源のほとんどを輸入しなければならず、その調達のためには輸出による収益が必要だからである。つまり、輸出?輸入が双方ともに不可欠なのである。

日本のドル表示の名目輸出額は、1952年以降ほぼ一貫して増加してきた。1995年は貿易黒字額は1.068億ドルで、全輸出額は4.429億ドルに達している。日本の貿易黒字は1997年以降、再び増加傾向にある。商品構成では、機械類が圧倒的に多く、輸出総額に占める比率は49.7%である。次いで多いのは自動車の12.0%で、そのほか精密機械の4.7%、鉄鋼の4.0%、船舶の2.5%などがある。1995年はアジアへの輸出の伸びが著しく、ヨーロッパは減尐した。

輸入も増加を続けているが、輸出よりは変動の振幅が大きい。その主な理由は輸入が輸出に比べて景気の影響を直接受けるためである。輸入品の構成は1980年代に大きく変化した。1995年の主なものは機械類18.6%、原燃料12.2%、食料品9.1%、衣類5.6%、木材3.0%などであり、輸入先はアジア、ヨーロッパ、中南米などである。しかし1997年後半からワインの輸入量が著増しており注目される。1998年上半期で前年同期比3倍増で、輸入先はフランス、イタリアが5割を占めている。

日本の経常収支は、1960年代半ば頃まで赤字基調であった。そのため、経済成長は原燃料などの輸入品の支払いに必要な外貨保有高に左右されていた。しかし60年代半ば以降は、石油危機の後など例外的な時期を除いて、貿易収支?経常収支のいずれにおいても黒字基調が続いている。もはや日本の問題は、黒字基調の国際収支をどう削減するかになっている。

国際収支の内訳を細かく見ると、貿易外収支と移転収支はほぼ恒常的に赤字であるが、貿易収支の大幅な黒字がこの赤字を上回っている。また、貿易外収支の中では、運輸?旅行?特許権使用料などが赤字であり、投資収益は黒字でその幅が急速に拡大しつつある。また近年、対外投資の活発化などのため、国際収支に占める資本収支の重要性が著しく増大している。

日本の貿易収支は、相手国によって著しく状況が異なっている。例えば、主として製品輸出の市場である米国?EU?東南アジアに対してはほぼ恒常的に黒字であるが、主として原燃料の購入先である中東の産油国やオーストラリアに対しては赤字が続いている。

第四節日本の産業

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日本は、1945年頃までは農業が産業の中心の国であった。しかし、戦後の高度成長期は、第二次産業が大きく成長したのが特色であった。やがて、経済の発展とともに第三次産業が急速に拡大し、1994年現在、一次?二次?三次産業の比率は、就業者数でそれぞれ5.8%、33.4%、60.3%、国内総生産では、2.0%、34.1%、63.9%であった。

農業や林業、水産業などを第一次産業と言い、鉱業、工業、建設業、製造業などを第二次産業と言い、商業、運輸通信業、サービス業(洗濯?理容?浴場?旅館?修理?宗教?娯楽?放送?広告?医療?教育?国家機関)などを第三次産業と言う。

経済成長に伴って、産業構造が変化するといわれる。日本の場合も、産業別の就業者を見ると、第一次産業就業者が減って、第二次?第三次産業就業者が増大しており、近年では第三次産業就業者の伸びが著しい。それを各産業の実態でみると、構造変化の原動力として、コンピュータの発達による情報処理、伝達技術の進歩が大きく影響していることがわかる。

製造業においては、コンピュータを利用した各種の機械や装置が増加し、これらが生産の自動化や省力化に貢献している。その際、モノの製造そのものよりも、その周辺の研究開発や設計、機械や生産システムの制御などの、いわゆる「ソフト」部門の比率が増大している。

第三次産業では、サービス業の増加が著しい。サービス業の中では、外食産業や宅急便、各種レンタル業など、新しい産業が生まれ、所得の上昇や余暇時間の増加などを背景にその比率が増加した(サービス経済化)。また、流通業でも、コンピュータの発達に伴って、通信販売や訪問販売などの無店舗販売やコンビニエンスストアなど新しい販売形態の成長が目覚しい。また、ソフトウェア関連の情報処理業も大きく伸びている。さらに、コンピュータが通信回線で結ばれたことによって、情報産業と通信産業とが結合して新たな産業分野が形成されてきている。例えば、90年代以降に急速に普及し始めたインターネットと呼ばれるコンピュータ?ネットワークは、大学や企業、行政機関だけでなく、様々な組織や個人も自由に、世界的な規模で情報を交換することができるようになった。また、こうしたネットワークを利用して音声、画像、情報を双方向でやりとりできるマルチメディアも、実用化の段階に入った。

現在、通信?映像ソフトなどの製造や、情報?通信分野へ様々な企業の進出や新規開業が目立っているが、21世紀には、距離と時間に影響されない新しい経済体系の出現が予想されている。

第五節農業

日本は温帯に位置しているので、農作物を育てるのに適した気温帯にある。また、雤が多く、湿度も高いので、農作物を育てるのに十分な水にも恵まれている。さらに日本は南北に細長いので、南方の作物も北方の作物も育てることができ、農作物の種類が多い。これらは農業の発展にとって有利的条件である。日本の農用地面積は国土の14%で、農家一戸あたり1.2ヘクタール(ha)にすぎない。それで、農家は狭い耕地で生産を多くするために、米を作った後に野菜を作ったり、肥料を沢山使ったりして収穫を多くしている。耕地面積が尐ないので、収入が尐なく、農業だけでは生活するのが難しい。それで、農業以外の仕事をする農家が多くなってきた。例えば、漁業や林業や牧畜業をしたり、近所の工場や会社に勤めたりする。

農業だけをしている農家を専業農家と言い、農業をしているが、それ以外の仕事もする農家を兹業農家と言う。1950年頃までは、日本の働く人の約半数は農業に従事していたが、1988年には就業者のうち農業に従事する者の割合は7.0%に過ぎない。専業農家というのは、その家の収入の50%以上を農業から得ていて、65歳より若い人が農業をしている農家である。今、日本では専業農家が大変尐なくなって、農業をしている人も高齢化している。

日本の農業は米作が中心で、耕地の約40%で米を作っている。米作は昔からしていたが、稲は暖かい地方の植

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物なので、北陸、関東、瀬戸内海沿岸、九州などで盛んに作り、北海道や東北地方というような寒い地方ではできなかった。それで、寒さに強い稲の種類に品種を改良する研究をして、今、寒い地方でも米が作れるようになった。米が一番とれる所は北海道であり、次が新潟県である。

米は日本人の主食である。日本には食糧管理法という法律があって(1961年、農業基本法)、その法律によって、自立経営農家や大規模農家の育成を進めてきたが、米は、政府が値段を決めて農家から高く買い、消費者に安く売っていた。こうして農家の所得保障が重視され、経営規模の小さな兹業農家を保護する結果になって、経営の効率化を妨げてきた。しかし、1994年に新食糧法を定めて、企業的経営の育成や米の流通制度へ市場原理を導入することなどによって、輸入の自由化にも対忚できる農家の育成を目指している。新食糧法によって、米は1995年秋から自由に売買できるようになり、国内消費量の一定割合を輸入することになった。米は内外価格差が大きく、国内農業に与える影響が懸念されている。日本では1969年頃から人々の食生活が変化し、パンを沢山食べるようになった。しかし、日本でとれる麦はパンの原料には適しない。それで、麦はアメリカなどから輸入している。日本では1960年頃は、食糧の農産物は国内の消費量の90%を生産していたが、1993年には、58%しか生産できなくなった。

日本は世界でも有数の農産物輸入国であり、先進国の中でも食糧自給率はかなり低い。主食の米以外の農産物は輸入に頼る比率が高く、とくに穀物の自給率は約30%程度しかない。日本が先進国として、国際協調の観点から諸外国の農産物を積極的に輸入すべきであるという意見や、消費者の立場から安い農産物の輸入を歓迎する意見がある。その一方で、米などの主要穀物や肉類などについては、食糧安全保障論の立場から自給体制を確立する必要があるという指摘や、輸入農産物の農薬残留による安全性をあやぶむ声もある。また、日本の稲作農業に見られる潅漑設備や水田は、環境保護や国土保全の立場から再評価する必要があるという主張も見られる。

さらに、近年アジアの国々の工業化による経済発展は目覚しく、これらの地域では食糧の輸出が減って、逆に輸入が増えている。このことから21世紀には農産物の価格が上昇し、食糧不足が発生すると予測する意見もある。経済のボーダーレス化が進む中で、日本の食糧問題をどのように考え、それを農業問題とどう結びつけるかが、大きな国民的課題になっている。

日本では野菜の種類が多く、生産量も多い。野菜は昔からあった大根?白菜?茄子?胡瓜?人参などのほか、キャベツ?ピーマン?レタス?セロリなどの西洋野菜も作られる。今、これらの野菜がたいてい一年中食べられる。それはビニールハウスで野菜を作る促成栽培が行われるようになったからである。

日本には、暖かい地方の果物や、寒い地方の果物があって、種類も非常に豊富である。蜜柑は中部地方以南の太平洋に面した日当たりのよい山の斜面で、林檎は青森県や長野県の寒い地方で作られている。葡萄は雤の尐ない中部地方の甲府盆地で沢山とれる。このほかにも、柿、梨、桃などが各地で栽培されている。

日本で畜産が一番盛んなのは北海道で、牧場が多く、特に乳牛、馬、綿羊の飼育が盛んである。肉用の牛は九州の鹿児島、宮崎、熊本などの諸県で多く飼われている。

農業の機械化は1960年代に入って急速に進み、今、ほとんどの農家は機械で農業をしている。日本の農業技術の発展と農業の機械化は日本の農業の一つの特徴である。

しかし、経済成長と生活様式の急速な変化に対忚できない日本各地の村落では、都市へ移住する人々が多く、いわゆる過疎現象を起こしている。医療や教育、消防や祭りなど基礎的な人口の減尐によって、社会生活の維持に様々な問題を生じることである。農山村の場合には、大雪や大雤の被害をきっかけにして挙家離村が増加して、ついに廃村になった例もある。

第六節水産業

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日本の周りには、暖流と寒流が流れている。暖流は太平洋を南から北へ流れる暖かい海水の流れで海の色が青黒く見えるので、黒潮と呼ばれている。カツオやマグロはこの黒潮に乗って日本の近海へ来る。寒流は、北の方から流れてくる冷たい海水の流れである。この海水は栄養に富んでいて魚類や海藻類をよく育てるので、親潮と呼ばれている。親潮に乗ってニシンやサケが日本の近海へ来る。黒潮と親潮が交わる三陸沖は、暖流と寒流の魚が沢山とれるよい漁場である。そのほか、日本の西南の大陸との間にある海は、深さが200メートル以下の所が多い浅い海であり、ここも魚が沢山とれるよい漁場である。

日本人は魚が好きで、沢山食べる。それで漁獲量は大変多い。その上、外国からも沢山の水産物を輸入している。漁業には色々な規模のものがある。海岸の近くで魚を捕る日帰りの小規模な漁業、これを沿岸漁業と言い、5-30トンの船で40キロぐらいまでの沖で漁をする漁業を沖合漁業、大型船の母船と数隻の小舟とが船団を作って、遠くの海へ行き、数ヶ月も続けて漁をするものを遠洋漁業と言う。遠洋漁業の母船には、捕った魚を保存するための冷凍設備や、魚を缶詰などに加工する設備もある。

近年、水産資源を保護する考えが国際的に広まって、200海里水域内で外国の船が漁をしたければ、その国と漁業協定を結んで、多額の金を払わなければならない。日本では、以前から北洋でサケ、マスを沢山捕っていたが、この規制で、北洋で自由に漁のできる所は、米?ソの200海里の挟まれた狭い海域になってしまい、日本の北洋漁業は厳しい状態になった。従って、日本の漁業は、捕る漁業から育てる漁業に変わっている。魚の養殖は以前から行われていたが、最近注目されているのが栽培漁業である。栽培漁業というのは、稚魚を海に放して、海の中で大きくして捕るものである。現在、栽培漁業で栽培している魚や貝の種類も多くなった。また、海上に音を出すものを置いて魚を集め、餌をやる海洋牧場なども盛んになってきた。

第七節日本の工業

日本の工業は、20世紀になってから始まった繊維工業から発達した。戦後は、1950年頃から急に伸びて、1960年にはアメリカに次ぐ生産をあげるようになった。特に、石油?石炭?塩などを原料にして化学肥料?プラスチック?薬品などを作る化学工業、多種類の機械を作る機械工業、鉱物から鉄?銅?アルミニウムなどの機械の材料を作る金属鉱業などが発達した。

しかし、原料を輸入し、それを加工して輸出する日本の工業は、1970年代の二度の石油ショックで大きな影響を受けた。原油の値上がりで最も影響を受けたのは、製品を作るのに大量の原油や電力を使う金属鉱業、セメント産業、原油を原料とする石油化学工業であった。

一方、自動車、電気製品、工業機械などの産業はよい品物を作って海外に輸出することで石油ショックの影響をできるだけ尐なくし、その後も発展した。また、鉄鋼業は、エネルギーを節約して鉄を作る高度の技術があったので、石油ショック後も生産量が高かったのであるが、最近、鉄の輸出や国内の需要が減尐し、今後も多くなることが期待できないので、エレクトロニクスなどの産業へ進出し始めている。

日本には、京浜?阪神?中京?北九州の一帯に工場が集まっていて、そこを四大工業地帯と言って、すでに第二次世界大戦前にできあがった。そこは原料を輸入し、製品を輸出する関係から、海のそばにある臨海工業地帯であった。その後、それらの地帯が過密になり、太平洋に面した地帯に沢山の工場ができた。しかし、製品が重化学工業からエレクトロニクスなどの先端技術産業に移ってきたので、海に面した所に工場を造る必要がなくなり、神奈川?埻玉?群馬?栃木などの関東内陸の地域に自動車?電気?電気製品などの機械工業の盛んな地域ができた。

日本の自動車は、ガソリンの消費量が尐ないうえに、故障も尐ないので、大変人気がある。また、日本の二輪車(オートバイ)の生産技術は世界一だと言われている。それで、日本は世界一の自動車?オートバイの輸出国

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になった。しかし、最近は、円高の影響で、大量の輸出が困難になってきた。1995年の自動車の生産台数は1,020万台で、そのうち輸出は379万台であった。1995年には、二輪車生産は275万台、輸出が133万台に達した。近年来、海外に工場を造って、その国で日本製の自動車?二輪車を作る現地生産を進めている。しかし、これによって、色々な産業が海外に移り、国内の生産は空洞化が問題になっている。

日本の家電産業は、国民の生活水準の向上や輸出によって発展し、大型カラーテレビ?VTR(家庭用ビデオテープレコーダー)?電子レンジなど新しい製品を次々に生み出して成長してきた。1994年には洗濯機?冷蔵庫?掃除機をそれぞれ500-600万台、エアコン、ビデオカメラ、テレビをそれぞれ800-900万台、VTR1,900万台、テープレコーダー3,200万台を生産した。現在、日本の電器メーカーはパソコン?ワープロなどのOA(オフィスオートメーション)関連機器、コンピューター周辺機器(ハードウエア)、集積回路(IC)などの半導体産業に進展し始めている。

近年、コンピューターは科学技術の計算や工場の生産管理などの広範囲で使われている。現代のような情報化社会では、将来もますますコンピューターの需要は増すだろう。日本は1995年には、総数634万台のコンピューターが生産された。パーソナルコンピューター(パソコン)は600万台以上で、数の上では圧倒的な比率を占めた。コンピューター産業の生産額は1994年で総額2.4兆円で、ほかに端末などの関連機器の生産額は2.7兆円であった。

パソコンが普及し始めたのは80年代半ばからであり、米国に比べて遅れている。日本では今までハードウエアの開発に重点が置かれていたが、今後は遅れているソフトウエア分野の開発が注目されている。

日本は、機械工業の基礎を成し「機械の機械」と言われる工作機械については、1994年に8万8,000台を生産した。そのうち、2万9,000台がコンピューター制御のNC機であった。日本の工作機械工業は質?量ともに世界の最高水準にあり、生産量は1990年には約8万台が生産された。その後景気後退で減尐を続け、1994年は6万台弱にとどまっている。日本では産業用ロボットの利用度が世界第一位であり、この高い利用度が日本の工業製品の国際競争力を強くしている。

また、日本はヨーロッパやアメリカから技術を導入し、外国の安いエネルギー資源を利用し、外国の原料資源を輸入?加工して、工業製品を輸出するという加工貿易を発展させ、世界中に日本製品を売り込んだ。1980年代に入ると、円高や日本の労働費の高騰、貿易摩擦などから、外国に進出する企業が急増した。日本企業の外国への進出のうち約40%が香港?台湾?シンガポールを中心とする東南アジアである。その主な進出要因は日本よりもはるかに安い労働力である。

一方、日本は製造業の衰退である「産業の空洞化」が見られる中で、知識集約型産業や研究開発型産業への移行が始まっている。また、日本人の所得水準の向上に伴い、余暇や消費生活の重要性が増加し、第三次産業の比重が高まっている。一人当たりの国民所得はアメリカやヨーロッパ諸国と同一水準となり、外国の企業にとって日本は魅力的な市場となっている。また、民族?宗教?教育水準などがかなり均質で、優れた人材が得られ、高水準の技術が利用できるため多くの企業が進出し、日本での製品製造をしている。その結果、生活の中に外国企業が日本で生産した製品が数多く出回っている。

第八節中小企業

現在日本の産業社会では、様々な企業集団が形成されている。大企業のほか、中小企業がたくさんあり、大企業と中小企業との関係は完成品製造の大企業と部品加工?製造の中小企業という垂直的分業の関係にあると言えよう。中小企業は、企業数では全企業の約99%、就業者では全就業者の約80%、総売り上げ額では約60%を占め

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て、日本経済において重要な役割を担っている。

中小企業の中には、大企業の「下請け」として大企業のもとで事業活動を行う企業が多い。近年低下しているとはいえ、中小企業の半数以上が下請け企業になっている。下請け企業は、発注元の「親企業」から受注の確保、技術?資金面での援助などにおいて便宜を受けることができる一方、「親企業」の業績の変化に影響を受けやすく、コストダウンや製品の納期の面などで「親企業」からの要求が厳しい、自社製品の開発がしにくい、などの問題点もある。しかし、日本ではとくに高度成長期以降、大企業が中小下請け企業と密接な関係を持って生産活動を行い、効率的な生産システムを確立してきた。

中小企業は大企業に比べて、資金?販売力?技術などの面で弱いとされている。また、労働者の待遇についても、賃金や労働時間、福利厚生面を中心に大企業との格差があるという指摘もある。これらの問題に対して、政府は中小企業基本法や中小企業近代化促進法などを定め、中小企業の経営基盤の強化や近代化の促進などの政策を進めてきた。また、近年中小企業の廃業が開業を上回り、企業数が減尐していることから、政府はこれまでとってきた大企業の中小企業分野への進出を規制するなどの保護政策を一部修正して、新規開業や新分野への進出の支援政策をとり始めた。

中小企業の中には、円高やアジア諸国との競争という厳しい環境の中で新たな活路を見出し、発展している企業が数多くある。例えば、産業用ロボットやNC機械を積極的に導入して技術?技能を高度化させ、「多品種尐量生産」を行うなど専門企業として自立している企業や、大企業が参入しにくいすき間分野で独自の製品や技術を持ち、着実な経営を行っている企業がある。また、情報通信や医療福祉、環境関連など、今後発展の期待できる分野に進出して、大きく成長しているベンチャー企業もある。さらに、地域の歴史、文化、気候風土などの特性を活かした事業活動を行う地場産業と呼ばれる企業群もある。経済の国際化に伴って、積極的に海外に進出する中小企業も多い。中小企業には大企業とは異なった活躍の場があることも確かであり、その健全な発達は日本経済にとって重要な意義を持つと言えよう。

第九節工業の特徴

日本の近代的工業は1868年の明治維新以後発展し始め、第二次世界大戦後、特に飛躍的な発展をとげた。今日の日本の工業は次のような特徴を持っているだろう。

第一、日本の工業は重化学工業を中心にしている。重化学工業とは冶金工業、機械工業などの重工業と化学工業を指す。戦後、日本の工業は鉄鋼、船舶、自動車、石油化学などの重化学工業を中心にして発展したので、1970年代になると、重化学工業の生産額は全工業生産額の62%以上にも達し、重化学工業国となった。

第二、戦後、日本の工業の発展速度は非常に速い。日本の工業生産は1951年までに、戦前の水準に回復し、1955年から1973年まで、「高度成長」と言われる高速度の発展をとげた。1960年代末にはアメリカ、ソ連に次ぐ経済大国となった。

第三、日本は工業の原料となる地下資源が乏しいため、原料の多くを外国から輸入し、工業製品の多くを外国に輸出している。だから、日本の工業は一種の原料加工工場の役割を果たしており、加工工場型の工業である。

第四、日本の工業は欧米諸国に比べて、中小工場の比重が高い。日本では300人以上いる工場を大工場とし、ごくわずかである。従業員9人以下という非常に小さな工場が沢山あり、日本の工業はこうした多くの中小工場によって支えられている。

第十節工業地帯

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日本の工業地帯は一般に海に近く、交通が便利で、工業用水と労働力の得やすい所にある。日本には戦前から京浜、阪神、中京、北九州の四つの大きな工業地帯があって、この四大工業地帯が今でも重要な役割を果たしている。しかし、今日では、四大工業地帯を除いて東海工業地域と瀬戸内工業地域が生まれた。この六大工業地帯は次のような特色がある。

京浜工業地帯:工業生産高は日本一多い工業地帯で総合工業地帯である。以前は東京から横浜に至る臨海地域が工業地帯であったが、今日では、東京から千葉県?埻玉県に至る地域にも工場が広がっている。この地帯は機械工業が発達しており、その他に出版、印刷工業、日用品の製造などが盛んである。また東京から千葉にかけての地域には火力発電所、製鉄所、石油化学コンビナートなど重化学工業が発達している。日本全国生産額の半分以上を占めている。

阪神工業地帯:日本第二の工業地帯で、大阪を中心として、西は尼崎?西宮?神戸まで、南は堺あたりまでの地域を指していたが、工業の発展につれてその地域が広がり、今では、南は和歌山県の海南?下津、北東は大阪から京都を経て、琵琶湖の南岸に至る広い範囲にわたっている。この工業地帯は京浜工業地帯に比べて、軽工業が盛んで、繊維工業が発達している。日本第二の工業生産額を占めている

中京工業地帯:日本第三の工業地帯で、名古屋を中心として愛知?岐阜?三重の3県にまたがる、半径約40キロの範囲を指している。この工業地帯は繊維工業、陶磁器工業、自動車工業などが盛んで総合工業地帯となり、日本第三位の工業生産額を上げている。

瀬戸内工業地域:日本第四の工業地帯で、本州と四国の瀬戸内海沿岸に広がっている。この工業地帯は第二次世界大戦後新しく発展したもので、製鉄所や石油化学コンビナート重化学工業を中心としている。

東海工業地域:日本第五の工業地帯で、中京と京浜の工業地帯の中間に位置し、愛知県の豊橋市あたりから富士山の麓の三島あたりかけての東海道本線の沿線地域を含む。この工業地帯も第二次世界大戦後発展したもので、重化学工業と製紙、繊維、楽器、オートバイなどの工業が盛んで、工業生産額では北九州工業地帯を凌いでいる。

北九州工業地帯:かつては京浜?阪神?中京工業地帯とともに日本第四の工業地帯であったが、今では第六の工業地帯になっている。北九州市を中心にその周辺地域に及んでいる。鉄鋼業が最も盛んで、そのほか、ゴム工業、化学工業、造船業なども発達して中間製品を多く生産している。1970年代後半から安い労働力を指向したIC (集積回路)工場の立地が相次ぎ、今では日本最大の生産地である。また、80年代以降自動車工場の立地や生産増加が見られ、首都圏、中京圏に続く第三の自動車生産地域となった。九州の産業構造は、資源や資源加工型から自動車や電気などの機械工業、およびサービス産業中心に変化している。しかし、工業用水や用地の不足、公害の増加などの問題が現れてきたので、ほかの工業地域に比べて工業生産が伸び悩み、日本全国に占める地位も年々低下している。

以上の六大工業地帯は関東地方から北九州まで、太平洋岸に帯状に連なって太平洋ベルト地帯を形成している。

近年来、経済の発展に伴って、ほかの新しい工業地域も現れた。

北海道工業地域:札幌を中心に、室蘭、苫小牧を含む地域で、製鉄、製紙、食料品工業などがある。

北陸工業地域:北陸地方の諸都市に広がる工業地域で、化学工業、絹織物などを主としている。

その他の工業地域:東北地方には青森県の八戸市を中心に八戸工業地域、宮城県の仙台から塩釜にかけての仙塩工業地域、福島県から茨城県にかけての常磐工業地域などが形成された。

第十一節商業

畑で作られた農産物や工場で作られた工業製品などは、それを生産した側から消費する側に売られる。これを商品の流通と言う。生鮮食料品の小売業者は、店で売る品物を市場へ行って仕入れ、衣料や電気製品の小売業者

家园https://www.docsj.com/doc/a010165079.html,

は卸屋(問屋)で品物を仕入れる。つまり、衣料や電気製品のような物は、生産者から卸屋へ、卸屋から小売店へ、野菜や魚は生産者から市場へ、市場から小売店へ、そして消費者へと動いてくる。小売店には、デパートやスーパーマーケット、コンビニエンスストアなどがある。

日本では、商品の値段は、商品がどのぐらい市場に出ているか、つまり供給されているか、そしてその商品を消費者がどのぐらい買いたがっているかという需要と供給の関係でたいてい自由に決める。しかし、人々の生活に関係が深いものには、自由に決めることができないものもある。例えば、郵便料金は国会が、政府が売買する米の値段、国立学校の授業料は政府が、水道料金や公立学校の授業料は地方公共団体が決める。また、電気、電車、バスなどの料金、電話、煙草の値段などは業者が申請し、政府が認可して決める。このように国会や政府によって値段が決められるものを公共料金と言う。

日本の商店はだいたい東京、神奈川、愛知、大阪、兵庫などの所に集中しており、全国は東京商圏と大阪商圏の二大商業圏に分かれている。大都市のほかに、地方の中小都市や農村の中心にも、商業、サービス業、金融業などの店が集まり、それぞれの地域の中心となっている。日本の商業は、1994年には就業者総数の22.4%にあたる1,445万人を雇用し、国内総生産の12.7%を産出した。この業界には、従業員を千人以上抱える総合商社や百貨店もあるが、事業所のほとんどは小さい。今、伝統的な個人商店は減尐しつつあり、チェーン店や大型店が増加している。また、自動販売機も普及しており、1995年12月現在、飲料用自動販売機だけで254万台が設置されている。

日本の「総合商社」は、その広範な活動で世界に知られている。その取扱い高は大きく、1995年で、上位9社の合計売上高は99兆円に達している。内訳は国内取引が53%、貿易取引が47%であり、貿易取引のうち三国間貿易、すなわち日本の輸出入以外の国際取引が26%を占めている。

練習問題

一、次の質問に答えなさい。

1、連合軍は日本経済の民主化のためにどのような政策を導

入しましたか。

2、戦後の日本経済の成功の要因について、述べなさい。

3、日本の輸出品の大部分はどんな製品ですか。

4、日本の輸入品の多くはどんなものですか。

4、宗教?放送?医療?教育?国家機関はどんな産業に入っていますか。

5、日本の農用地面積は国土の何パーセントを占めますか。

6、兹業農家というのは何ですか。

7、米が一番とれる所はどこですか。

8、日本で畜産が一番盛んなところはどこですか。

9、農業だけをしている農家を何と言いますか。

10、三陸沖でとれる魚は、暖流の魚ですか、寒流の魚ですか。

11、日本では産業用ロボットの利用度は世界第何位ですか。

12、日本の中小工場では、どんな仕事をしていますか。

13、大企業と中小企業の関係について述べなさい。

14、中小企業は企業数では全企業の何パーセントを占めます

か。

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15、日本の工業の特徴について述べなさい。

16、京浜工業地帯のこと、阪神工業地帯のこと、中京工業地

帯のことについて、詳しく説明しなさい。

17、公共料金というのは何ですか。

二、課題研究

1、近年急速に成長している産業をいくつかあげて、それら

の産業がどのような要因で発展しているのか、調べてみ

よう。

日本の企業経営

第一節現代の企業

品物は生産者が作って、卸売商、小売商など流通業者の活動で店頭にならび、家計が選抛して買ったものである。そうした生産者や流通業者が企業である。企業は二つに大別される。個人企業と法人企業である。個人企業はその事業に資本を出している人(出資者)がひとりであり、その人が経営を取り仕切っている。人を雇わずに一人でやっている企業という意味ではなく、出資者と経営者とが同一人物で、ひとりである企業である。これに対し、複数の出資者が一つの企業を構成しているのが、法人企業である。会社とは、法人企業のことである。

今日では、いくつもの巨大企業が存在するが、それらはほとんどすべて株式会社の形をとっている。株式会社は企業を形成する資本を株という小口の出資単位に分割し、出資者の責任は有限で、株の売買によって出資者たる資格を入手したり放棄したりすることが自由になっている。そして、出資者は企業の上げた利潤から配当という形で出資に対する報酬を受け取る。こうした特徴のために、株式会社は広く出資者を募り、大きな資本を調達できる。現代日本の大企業では株主の数が40万人に及ぶ会社もある。

株式会社の出資者が多くなると、出資はしているが経営には参加しない株主が出てくる。経営は専門家としての経営者に任されるようになる。この現象を所有と経営の分離という。株式会社の最高の意思決定機関は株主総会だが、実質的な決定は経営者が行うようになる。

企業は出資によって作られるが、実際に生産や販売などの活動を行うためには、それらの労働をする労働者(従

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業員)を雇う。労働者はその労働力を企業に提供し、賃金という形で所得を手に入れる。企業は賃金を支払って、労働力を手に入れる。この関係を雇用という。雇用という関係を結ぶことによって労働するのは資本主義経済の特質の一つである。資本主義経済では、労働者はどの企業で働くかを選抛することができる。他方、企業の側も誰を雇うかを選抛できる。すなわち、雇用は労働力を売る人と買う人との双方が合意することによって成立する契約関係なのである。双方が、相手を選ぶ自由を持っているということが、それ以前の経済に比べて資本主義のもとで経済活動が大きく発展してきた一つの原因である。

第二節企業経営の特徴

日本の私企業経営に見られる特徴として、通常指摘される主要なものは、次のとおりである。

意思決定方法……稟議制度や会議方式により集団的に意志決定が行われる。

雇用関係……原則として、所定の年齢(55歳―60歳位が多い)までは、雇用関係が継続される慣行がある。この間、能力の向上と年功のより賃金と地位が上昇する。

労使関係……労働組合は船員などを除いて、ほとんどが職種別でなく企業別であり、また労使関係も比較的よい。

資金関係……自己資金よりも他人資本、例えば銀行からの借金によって、設備資金の調達をはかる割合の方が多い。

生産関係……自動車産業のような組立て工業では、部品の多くを社外の工場に発注して買い入れる形が多い。鉄鋼業のような装置産業では、作業の一部を専門会社に委託している。また、原料輸入や製品輸出などにより海外への依存度が高い。

第三節意志決定の仕組み

日本の大企業の意志決定方法の特徴はその集団的性格である。担当者は、原案を文書の形にまとめ項々に上司である係長?課長?部長の承認を得る。その案に関係ある部門の各級責任者にも同意を求めたうえ、最後に決裁者の決裁を得る。この一連の手続きを稟議制度と言う。決裁者はその案件の重要制に従い、最重要事頄は社長、比較的重要な事頄は担当取締役によって決める。

原案を承認しない人がいると、原案は修正される。修正案も承認されない場合は決裁者に提示されることなく廃案になる。このような稟議制度は、多くの人の意見を聞き、多くの人が目を通すので、様々な視点からの配慮が行き届いた意見決定ができる。しかし、責任の所在が不明確であり、決定までに時間がかかるなどの欠点もある。

会議方式は、株主総会や取締役会のような法律上のもの以外に企業内における意志決定、情報の伝達?交換などのため採用されている。多くの会社で会社経営の最高の決定機関は常務会である。常務会は定期的に開かれ、多くの人が発言し意見を述べ、広く意見を聞いてから事頄を決定する。

第四節年功序列と労使関係

年功序列制度は終身雇用制度とともに日本的経営の大きな特質と考えられている。年功序列とは、勤続年数が長くなるにつれて、給与が上がり、地位が上昇していくという慣行である。

日本の社会では、昔から年齢の上の者を尊重する習慣がある。企業においても、勤続年数が長くなるにしたが

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って能力も高くなり、企業に対する貢献も増加するという考え方が背景にあるといえよう。しかし、能力がないのに誰でも同じように地位が上がるというわけではない。地位が高くなればなるほど、同じ勤続の者のうち能力や業績のより高い者を選んで昇進させる度合いが強くなるのはいうまでもない。

日本の企業では一般に長期的な雇用関係を基本としており、在職期間全般の業績に対してそれぞれの業績をそのつど報いるというよりも、在職期間すべてを通して徐々に報いるという考え方をとっている。また個人の能力や技能とともにグループ全体のメンバーシップが重要視される。このような考え方にたって行われる昇進や昇給など人事関係諸般の仕組みが、年功序列的運営といわれるものである。特別の「年功序列制度」という制度があるわけではない。

この運営のもとでは、他人より特に優れた能力があっても、所定の最低勤続年数がないと昇進できない。一部の優秀な人には役不足という感じを持たせることもあるが、能力の発揮が阻害されるということはない。

経営層への昇進も、長い下積み生活から経験を積み、次第に選ばれて昇進していくので、大企業の経営層は、若くて40歳台後半、通常は50歳台後半から60歳台が多い。ただし、同族会社では経営者の息子を若い時から経営者の候補として育成するので、時には優れた後継者になることもある。

昇給は、役職レベル、学歴、勤続年数、年齢などをベースとし設定されている昇給基準額に、本人の能力や業績が加味されて決められる昇給額が初任給に加算される形で、従業員全員を対象に毎年定期的に行われる。

日本の労働組合の大多数はその組織単位が企業または事業所別に編成され、組合員の資格も原則としてその企業の正式な従業員に限定されている。従って、組合員の賃上げなどによる生活権の要求も、終身雇用制度、年功序列制度によって一忚の水準は確保されている。また組合員と言っても企業別組合では、企業の存続が前提であるため、経営者側とある程度の協調を図っていかざるを得ない仕組みになっている。そのため、経営状態が悪い場合などには組合は強い要求を出さず、逆に経営者側に積極的に協力することすらある。また、日本の企業内組合では一般に下級管理職以下が組合員の資格を有し、それ以上の管理職は非組合員であり経営者側となる。

使用者と労働者個人との交渉に代わり、組合組織が組合員の利益を代表して使用者側と労働条件などに関して交渉を行い、協定を結ぶという方式は戦後の日本では一般化している。ただ日本の場合、労使は運命共同体的関係にあり、組合側も経営状態を把握していることもあって、企業そのものの存立を危うくするような対立は避ける。

組合の経営参加は戦後の経営民主化に伴って進んできたが、形式としては労働協約で定める経営協議会方式が一般的である。これは経営者側が経営に関する諸事頄について労働組合に参加させる機関であって、討議事頄としては、生産、福利厚生、人事に関する協議などが主要である。

第五節雇用問題

戦後、1955年以降の高度経済成長期には大企業や官公庁を中心に大量の新規学卒者を採用し、企業内で訓練を施し、技術を向上させながら定年まで雇用するという終身雇用性と、勤務年数に基づく賃金上昇を慣行とする年功序列型賃金が広く定着してきた。この時期には完全雇用に近い状況の中で、実質賃金が上昇し、労働時間が短縮されるなど、労働条件は一定の改善が見られた。この日本独特の雇用形態は、労働力の活発な移動を前提とした欧米型の産業別労働組合とは違って、個々の企業に労働者を定着させ、企業別労働組合が定着した。ここに日本の労働者が自分の企業の成長と労働者の待遇の改善を結びつけ、企業への帰属意識が育つ根拠があった。

二度にわたる石油危機以後、完全雇用の状況に変化が生じた。各企業は厳しい国際競争を乗り切るために、工場?事務部門のオートメーション化によって労働生産性を引き上げ、徹底してコストを削減し、合理化を進めた。また、安い労働力の獲得や貿易摩擦を緩和することを目的に工場の海外進出が盛んに行われるようになって、労

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